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寺田屋事件を伝えた坂本龍馬の手紙 抜粋(慶応2年12月4日、坂本権平、家族一同宛て)

慶応2年12月4日に、坂本龍馬が坂本権平および家族一同に宛てて書いた手紙に、京都伏見の京橋の船宿、寺田屋での難のことが詳細に記されています。この手紙はとても長いもので、寺田屋事件以外についても、慶応2年6月の関門海峡の長幕海戦と小倉戦争のことなども記されているのですが、寺田屋事件に関する部分のみ以下に抜粋します。

坂本龍馬の手紙 (出典:共同通信社 写真は高知県提供)

上ニ申伏見之難ハ去ル正月廿三日夜八ツ時半頃なりしが、一人の連れ三吉慎蔵と咄して風呂より揚り、最早寝んと致し候処に、ふしぎなる哉(此時二階居申候。)人の足音のしのび/\に二階下をあるくと思ひしに、六尺棒の音から/\と聞ゆ、おり柄兼而御聞に入し婦人、(名ハ龍今妻也。)勝手よりセ来り云様、御用心被成べし不謀敵のおそひ来りしなり。鎗持たる人数ハ梯の段を登りしなりと、夫より私もたちあがり、はかまを着と思ひしに次の間に置有之ニ付、其儘大小を指し六連炮を取りて、後なる腰掛による。連れなる三吉慎蔵ハはかまを着、大小取りはき鎗を持ちて是も腰掛にかゝる。間もなく、壱人の男障子細目に明ケ内をうかがふ。見れバ大小指込なれバ、何者なるやと問しに、つか/\と入り来れバ、すぐに此方も身がまへ致セバ、又引取りたり。早次ギの間もミシ/\物音すれバ龍女に下知して、次の間又後の間のからかみ取りはづさし見れバ、早拾人計り鎗持て立並びたり、(ママ)盗賊燈(強盗提燈)灯二ツ持、又六尺棒持たる者其左右に立たり。双方暫くにらみあふ処に、私より如何なれバ薩州の士に不礼ハ致すぞと申たれバ、敵口々に上意なり、すはれ/\とのゝしりて進来る。此方も壱人ハ鎗を中段にかまへ立たり。敵より横を討ると思ひ、私ハ其左へ立変り立たり。其時銃ハ打金を上ゲ敵拾人斗りも鎗持たる一番右の初めとして一ツ打たりと思ふに、此者退きたり。又其次ぎなる者を打たりしに其敵も退きたり。此間敵よりハ鎗をなげ突にし、又ハ火鉢を打込色々たゝかふ。味方も又鎗持て禦ぐ。家内之戦実に(や)かましくたまり不申。其時又壱人を打しが中りし(や)分り不申処、敵壱人障子の蔭より進ミ来り、脇指を以て私の右の大指の本をそぎ左の大指の節を切割、左の人指の本の骨節を切たり。元より浅手なれバ其者に銃をさし向しに、手早く又障子の蔭にかけ入りたり。扨前の敵猶迫り来るが故に、又一発致セしに中りし哉不分、右銃ハ元より六丸込ミな(れ)ども、其時ハ五丸のミ込てあれば、実ニ跡一発限りとなり、是大事と前を見るに今の一戦にて敵少ししらみたり。一人の敵黒き頭巾を着、たちつケをはき鎗を平(正)眼のよふにかまへ近※(二の字点、1-2-22)よりて壁に添て立し者あり。夫を見るより又打金を上ゲ、慎蔵が鎗持て立たる左の肩を銃の台にいたし、敵の胸をよく見込ミて打たりしに、敵丸に中りしと見へて、唯ねむりてたをるゝ様に前にはらばふ如くたをれたり。此時も敵の方にハ実ニドン/\障子を打破るやらふすまを踏破るやら物音すさまじく、されども一向に手元にハ来らず、此間に銃の玉込ミせんと銃の回転式拳銃の弾倉の断面図此様なるもの取りはづし、二丸迄ハ込たれども先刻左右の指に手を負ひ、手先き思ふ様ならず、阿屋(あや)まりて右玉室を取り落したり。下を尋ねると雖ども元よりふとん引さがしたる上へ、火鉢の灰(など)敵よりなにかなげ込し物と交り不分。此時敵ハ唯どん/\計りにて此方に向ふ者なし。夫より銃を捨、慎蔵に銃ハ捨たりと言バ慎蔵曰、然時ハ猶敵中に突入り戦ふべしと云ふ。私曰、此間に引とり申さんと云へバ、慎蔵も持たる鎗をなげすて後のはしごの段を下りて見れバ、敵ハ唯家の店の方計りを守り進む者なし。夫より家の後なる屋そひをくゞり、後の家の雨戸を打破り内に入て見れバ、実に家内之者ハねぼけてにげたと見へて夜具など引てあり。気の毒ながら、其家の立具(ママ)も何も引はなし後の町に出んと心がけしに、其家随分丈夫なる家にて中※(二の字点、1-2-22)破れ兼たり。両人して刀を以てさん/″\に切破り、足にて(ふみ)破りなどして町に出て見(れ)バ人壱人もなし。是幸と五町斗りも走りしに、私病後の事なれバ、いききれあゆまれ不申、着物ハ足にもつれぐず/\いたセバ敵追着の心配あり、(此時思ふにハ男子ハすねより下にたるゝ着物ハ致すべからず候。此時ハ風呂より上りし儘なれバ、湯着を下ニ着て、其上にわた入を着、はかまハ着る間なし。)つひに横町にそれ込ミて、御国の新堀の様なる処に行て町の水門よりはひ込ミ、其家の裏より材木の上に上り寝たるに、折悪くいぬがほえて実にこまり入たり。そこにて両人其材木よりおりしが、つひに三吉ハ先ヅ屋敷に行べしとて立出しが屋敷の人と共にむかひに参り、私も帰りたり。扨彼指の疵ハ浅手なれども動脉とやらにて翼日(ママ)も血が走り止ず、三日計も小用に参ると、目舞(ママ)致候。此夜彼龍女も同時に戦場を引取り、直様屋敷に此よしを告げしめ、後ハ共※(二の字点、1-2-22)京の屋敷(え)引取り今ハ長崎江共※(二の字点、1-2-22)出づ。(此頃余程短銃上達す。)

此伏見江取り手の来りしを詮(ママ)するに大坂町奉行ハ松平大隅守と云て、同志の様に度※(二の字点、1-2-22)咄しなど致し、面会時※(二の字点、1-2-22)したるに此度ハ大坂より申来りしとの事、合点ゆかず猶々聞合すにはたして町奉行ハ気の毒がり居候よし。此大坂より申来りしハ幕府大目付某が伏見奉行へ申来るにハ、坂本龍馬なるものハ決(て)ぬすみかたりハ致さぬ者なれども、此者がありてハ徳川家の御為にならぬと申て是非殺す様との事のよし。此故ハ幕府の敵たる長州薩州の間に往来して居との事なり。其事を聞(た)る薩州屋敷の小松帯刀、西郷吉之助なども皆、大笑にてかへりて私が幕府のあわて者に出逢てはからぬ幸と申あひ候。
此時うれしきハ、西郷吉之助(薩州政府第一之人、当時国中に而ハ鬼神と云ハれる人なり。)ハ伏見の屋敷よりの早使より大気遣にて、自ら短銃を玉込し立出んとせしを、一同押留てとふ/\京留守居吉井幸助、馬上にて士六拾人計り引連れ、むかひに参りたり。此時伏見奉行よりも打取れなどのゝしりしよしなれども、大乱にも及ぶべしとて其儘に相成候よし。実に盛なる事にて有之候。私ハ是より少々かたハにハなりたれども、一生の晴にて有之候。疵ハ六十日計り致し能く直りたり。左の大指ハ元の如し、人指ハ疵口よくつげて只思ふ様に叶ぬと申斗りにて、外見苦しき事なし。右の大指のわた持をそがれしハ一番よく直りたり。右の高指の先きの節、少※(二の字点、1-2-22)疵つけども直様(すぐさま)治りたり。 (慶応二年十二月四日 坂本権平、一同あて手紙  出典:青空文庫

現代人には読解がなかなか難しいですが、宮川貞一著『坂本龍馬からの手紙』(2014年、教育評論社)に現代語訳がありますので、興味のある方はお買い求めください。

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