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伏見奉行

江戸時代、伏見は伏見奉行が支配した。奉行とは幕府直轄領(幕領)のうち重要な場所に置かれ、その土地の政務を取り扱った。このような遠国奉行は、幕末時点で16名存在した。その中で伏見奉行だけが大名が充てられており、重要な役職であったことがうかがえる。

1.伏見城代時代

慶長5年(1600年)の関ケ原後、伏見は松平下野守(家康四男松平忠吉・清洲城主60万6千石)の支配に属した。慶長7年(1602年)12月、伏見城在番制が定められ、京都所司代の指揮下におかれることとなった。慶長12年(1607年)閏4月、掛川城主松平隠岐守定勝(家康の異父同母の弟)が伏見城代に任命された。家康曰く、『伏見は天下枢要の地なるを以て、ここに在城せんと欲するも、思ふところありて駿府を座城とせしかば、伏見警護のためには、譜第勇敢の士を以て当たらしめ、武具兵糧を蓄えたり、若し不慮のことあらんには、汝固く守りて怠る勿れ』。慶長19年の大阪冬の陣の際は徳川軍の大本営となる。定勝は役後元和3年(1617年)に天封し、12月に内藤紀伊守信正(高槻城主)が城代に。同5年伏見城廃城令。内藤紀伊守信正は大阪城の城代に。この間、舎人源太左衛門を含めて5名が、4年~14年奉行職につく。この頃奉行は2名いた。

2.廃城後の伏見奉行

元和5年(1619年)~慶応5年(1869年)の間、39名が伏見奉行職につく。この間、伏見奉行は1人→3人→元禄9年~京都町奉行の分任→元に戻る→再び京都町奉行の分任→再びもとに戻る、と少しずつ形が変わっている。

この歴代の奉行の中でも特に有名なのは、以下の4名だろうか。

名前 在職期間  備考
小堀遠江守政一
江州御室10630石
元和9年(1623年)~正保4年(1647年)
25年間
 いわゆる「小堀遠州」のこと。遠州流茶式の祖。和歌、書画、活花、器物鑑定などに通じていた文化人。
建部内匠頭政字
播州林田1万石
元禄11年(1698年)~正徳4年(1719年)
17年間
中書島の開地し、宝来橋、今富橋をかけた。
小堀和泉守政方
江州御室10630石
安永7年(1778年)~天明5年(1785年)
8年間
暴政を敷き、改易。いわゆる伏見騒動。伏見義民事件。
内藤豊後守正縄
信州岩村15000石
天保9年(1838年)~安政6年(1859年)
22年間
平野権平屋敷跡の池沼を開拓して住家建設。信州より桑を移入して栽培奨励。疫病発生の際は資材を投じて施薬療養。平戸町の荒地を開拓して遊園地を設ける。

 

【本稿執筆にあたって参考した文献など】

  • 伏見町誌(昭和3年、伏見町役場) (1972年臨川書店発行の「京都府紀伊郡誌、京都府伏見町誌」に収録、p.291~)
  • 伏見叢書(昭和13年、西野伊之助)

 

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