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新選組と伏見

新選組というと屯所のあった壬生を思い浮かべますが、伏見とも浅からぬ縁がありました。幕末の伏見は、毎日何百何千の舟が往来する港町・宿場町であり、寺田屋をはじめとした伏見の船宿には尊王攘夷の志士たちが多数たむろしていました。反幕府勢力を取り締まる警察活動を任務としていた新選組としては、監視地域であったでしょう。

 

元治元年(1864年)の禁門の変(蛤御門の変)では、新選組は竹田街道の銭取橋(今の勧進橋)を守備していました。伏見長州藩邸から御所を目指して出発した長州藩の福原元僴隊は藤森~稲荷周辺で伏見街道を守備していた大垣藩と戦闘となりました。新選組は遅れて駆けつけ、敗走中の福原隊を追撃しました。

 

より直接的な関係が生まれるのは、慶応3年(1867年)の年末からです。12月16日、近藤勇を隊長に、副長の土方歳三、副長助勤の沖田総司らをはじめ総勢150名からなる新選組は京都を離れ、幕府軍勢が陣取る伏見奉行所で伏見の警護に加わります。すなわち、屯所が伏見奉行所に移りました

12月19日、二条城に出向いた近藤勇が伏見奉行所へ帰る途中、墨染(現京都市伏見区墨染周辺)にて、かつての新選組隊士にして仲間割れした御陵衛士の篠原泰之進らに狙撃され、右肩に重傷を負います。結局この後、近藤勇は刀を握ることができなくなりました。

慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦いが勃発します。伏見奉行所に詰めていた新選組は局長代行の土方歳三が総指揮を取り、副長代行の永倉新八に率いられ、薩摩軍が陣取る御香宮神社とその東方の大砲を据えてある丘に夜間切り込みをかけます。これに対し薩摩軍は周囲の家々に次々と火をつけ闇夜を照らし、銃で応戦しました。ちなみにこの時の薩摩軍の砲兵隊長が大山巌だったそうです。

翌1月4日、土佐藩が薩長軍に加わり幕府軍は伏見から敗走します。東寺に錦旗が上がり、薩長軍は官軍に、旧幕府軍は朝敵になりました。この戦いで、伏見のまちの南半分が焼け野原となったといいます。1月5日、新選組を含む幕府軍は伏見を宇治川沿いに西南方面に下った淀千両松に布陣しますが、敗走します。この戦闘で新選組隊士の3分の1が戦死したといいます。1月6日夜、徳川慶喜が大阪城を捨て船で江戸に去り、戦闘は終結しました。数日後、新選組も船で江戸に向かいます。鳥羽伏見の戦いで命を落とした新選組の鈴木真人、水口市松、池田小三郎、宮川数馬は、他の幕府側の戦死者と共に、今も悟真寺(伏見区榎木町)に埋葬されています。

 

【本稿執筆にあたり参考にした資料など】

  • 伏見叢書
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